2013年8月17日土曜日

疑ってみることは勇気の要ることかもしれない : 松阪市議会議員 植松泰之

 歳を重ねるにつれ、自分の価値観が安定し、そのお陰であらゆる物事に対して、ほぼ瞬時に判断できるようになっていると思いませんか。
 そして、政治や経済に対しては勿論のこと、仕事に対して、人に対して、家族に対して何かを判断する時や何かを感じる時、あまり労力を使わずに済ますことが多くなってきていると思いませんか。

 大半はそれで問題なく過ぎていくのですが、いざ何かを変えようとする時や何かを始めようとする時はそれでは済まされないことが出てくるように思います。一度立ち止まり、対峙する事象に疑問符を投げかけてみるのも大切なことなのかもしれません。

 例えば、経済において国の借金が1000兆円を超え大変なことだと言われているが、本当なのだろうか。政治において道州制の導入が急務だと言われているが、本当にそうなのだろうか。松阪市議会の改革は議員数を減らすことだと言われているが、どうなのだろうか、等々。

 これまで見聞きしてきたことを疑い、見つめる角度をずらし、我欲を排して立ち止まってみることは決して楽なことではないのかもしれないし、むしろ勇気の要ることなのかもしれません。

 しかし、社会が変わる時とは些細な疑問符の積み重ねによってもたらされるような気がしてなりません。皆さんはどう思われるでしょうか。

7 件のコメント:

  1. いま、世間で言われていることは、本当なのだろうか?立ち止まってじっくりと、自分の考えを見てみる、それって、本当に自分の考えなのか?刷り込まれていないか?そういうことに気付かせていたでける深い記事です。植松さんありがとうございます。

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  2. いま、世間で言われていることは、本当なのだろうか?立ち止まってじっくりと、自分の考えを見てみる、それって、本当に自分の考えなのか?刷り込まれていないか?そういうことに気付かせていたでける深い記事です。植松さんありがとうございます。

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  3.  確かに昨今の在り様には深い憂慮を覚えずには居られませんね。
     市民視点、市民感覚、市民意識といった言葉で語られる事共の中にも至極面妖なモノが視られます。
    例えば「市民主権」という言葉。主権とは本来『国家』に帰属するものであり、その最高独立性を表す概念であったはずなのですが、何時の間に『市民』なるものが『国家』を凌駕し得たのでしょうか。
    貴方のご指摘通り今一度”疑って視る”ことの重要さを思はずに居られません。

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  4. いま、世間で言われていることは、本当なのだろうか?立ち止まってじっくりと、自分の考えを見てみる、それって、本当に自分の考えなのか?刷り込まれていないか?そういうことに気付かせていたでける深い記事です。植松さんありがとうございます。

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  5. 匿名さん、「市民」という言葉も疑ってみる必要がありそうですし、「主権」の意義も再考してみなければならない時期に来ているのかもしれません。一度立ち止まってみることで心の中で渦巻き続けるしっくりこない何かが見えてきそうです。

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  6. 仕分けやら民営化、土木建設業での談合などのインフラ産業での産業障壁の排除など、疑問符を投げるべきことが山ほどあるように思われます。ネットを見ているとそのようなことに疑問を持って意見を述べられている方がたくさんいて、たいへん勉強になって楽しい時代になってきた気もします。問題は山積みですが、一つの疑問によってよりよい結論が導かれることを切に願います。

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    1. 制度や仕組みに慣らされてしまっていると、なかなか疑問も生まれませんし、進歩もなくなってしまう気がします。仰る通り、一つのきっかけから新しい道を導き出せれば素晴らしいことだと思います。

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松阪と日本のために明るいコメントありがとうございます。!^^!